第22回演奏会テーマ

異稿を演奏してみました

横浜シティ・シンフォニエッタは発足当初から楽譜の版に拘ってきました。なるべく最新の研究に基づいた信頼のおける版を使用するよう心掛け、プログラムには演奏に使用する楽譜の版を必ず記載してきました。今回はこうした拘りを一歩進めて、有名曲の異稿を演奏するという、ちょっと普通ではお目に(お耳に)掛かれない演奏会を開催しました。

以下の文章は、演奏会当日ご来場いただいた皆さまにお渡ししたプログラムの中の「曲目メモ」です。


ヴェルディ / 歌劇 「アイーダ」~シンフォニア(マイケル・ケイによる再構成版)

1870年エジプト・カイロの歌劇場で上演するためのオペラが、巨匠ヴェルディに依頼された。そのために作曲されたのが、この歌劇「アイーダ」である。古代エジプトを舞台に、囚われの身となっているエチオピアの王女アイーダと、エジプト軍の指揮官ラダメスの悲恋を扱ったもので、充実した音楽とスペクタクルな場面にも事欠かないことから、歌劇場のこけら落としや野外オペラ公演、また歌劇場シーズン初めの演目として上演されることも多い。

さて1871年12月のカイロ初演の翌年、ヴェルディはミラノでのイタリア初演を控え、エジプト初演時の短い前奏曲に代えて長い序曲を作曲した。これが本日演奏する「シンフォニア」である。しかし、結局ヴェルディは1872年2月のイタリア初演でこの「シンフォニア」を使わなかった。理由は定かではないが、歌劇の開幕前に演奏するには充実した(充実し過ぎた?)「シンフォニア」より、簡潔な前奏曲の方が良いと考えたのかも知れない。

その後も「シンフォニア」は演奏されることなく、楽譜はヴェルディの死後、作曲者の遺族から名指揮者トスカニーニに託された。トスカニーニがNBC交響楽団と世界初演するのはそのはるか後、1940年のことだった。そしてその後この曲は演奏されることなく、また埋もれてしまう。

再び脚光を浴び始めたのは、1970年代にイタリアの音楽学者P.スパーダの手による再構成版を、指揮者C.アバドが取り上げるようになってからである。スパーダは自身の版を各種資料やトスカニーニの残した録音から採譜(いわゆる「耳コピー」)して作り上げた。以後演奏される際はこの版が使われ、1980年代の日本初演もこれで行なわれた。

本日使用するアメリカの音楽学者M.ケイによる新しい再構成版は、トスカニーニが世界初演で使用したパート譜を主な資料としており、スパーダ版に比べよりオリジナルに近い。なお、本日の演奏はこの版の日本初演である。


モーツァルト / 交響曲第31番 ニ長調 「パリ」 K.297(300a) (パリ・シーベル社初版)

1777年、モーツァルトは母と共に故郷ザルツブルクを旅立った。目的は、彼の就職先をヨーロッパ各地に求めるためである。しかし、かつて神童に対して驚きを持って歓迎した街々は、今や同業者の強力なライバルとなったモーツァルトを決して暖かくは迎えなかった。ミュンヘンでもマンハイムでもさしたる成果を上げられないまま、モーツァルトと母はパリに向かった。

当時から音楽の一大消費地であったパリ。モーツァルトはここで、コンセール・スピリチュエル(パリの演奏家団体)の主宰者ル・グロからサンフォニー・コンセルタント(パリで流行していた協奏交響曲)や交響曲を依頼されることになる。この交響曲こそが、本日演奏される「パリ交響曲」である。その初演(1778年6月18日)は大成功だった。ところがここで不幸が彼を襲う。7月3日に母が急死したのだ。しかし、その直後モーツァルトはザルツブルクの父宛の手紙で、気遣いから母の死には触れないまま、初演の様子をいきいきと伝えている。

1780年代にパリのシベール社から出版された「パリ交響曲」の楽譜は、自筆譜や筆写譜で伝えられている形と違っており、第2楽章はル・グロが初演後に短く書き直すよう命じた別の曲に差し替えられている他、第1楽章のオーケストレーションやテンポ指定が異なっている。なぜこのような相違点のある版が出版されたのかは、完全には解明できていない。


シューマン / 交響曲 ニ短調 (交響曲第4番 ニ短調 1841年初稿版)

1840年、シューマンはクララ・ヴィークとの数年来の愛を成就させた。クララの父との裁判や、幾多の困難を乗り越えての結婚であった。

それまでのシューマンの作品は、彼が元々ピアニスト志望であったこともあり、ピアノ曲が中心であった。クララとの結婚は、彼に他のジャンルへの興味とインスピレーションを掻き立てた。まず1840年は「歌曲の年」といわれるように、歌曲がたくさん書かれた。その翌年には「交響曲の年」がやってきた。交響曲第1番「春」が書かれ、交響曲作家シューマンのスタートとなった。そして間髪を入れずに作曲されたのが、本日演奏される交響曲ニ短調である。今日第4番と呼ばれるこの交響曲は、元々第1番「春」に続く2番目の交響曲として作曲されたのである。この交響曲は1841年12月にライプツィヒで初演されたが、評判は決して良いものとはいえなかった。一説には、この交響曲が初演された演奏会でクララとリストがピアノを弾くことになっており、聴衆の興味がそちらの方に集まったからだともいわれている。いずれにせよ交響曲のスコアは引き上げられ、一度引き出しにしまわれることとなる。

その10年後の1851年、シューマンは交響曲ニ短調の改訂に取り掛かる。その時点で交響曲は第3番「ライン」まで作曲済であった。改訂版の初演は成功に終わり、以後この曲は頻繁に演奏される交響曲の仲間入りを果たす。

シューマンの死後、1841年版の自筆譜をクララから贈られたブラームスは、シューマン楽譜全集におけるこの交響曲の扱いをめぐり、クララと揉めることになる。ブラームスは1841年版の方がより簡潔でシューマンらしいと主張したが、結局クララはシューマンの最終意思を尊重し1851年改訂版で出版した。このため親密だったクララとブラームスの関係は、一時こじれてしまう。

ブラームスは、指揮者・作曲家フランツ・ヴュルナー(コールユーブンゲンの作者)を巻き込み、1841年版の演奏、出版に尽くす。その結果、1841年版は1889年にヴュルナーの指揮で演奏され、また楽譜もシューマン全集の補巻として1891年に出版された。ところがこのブラームス=ヴュルナー版には大きな問題あった。それはシューマンが1841年に書いた楽譜そのままではなく、随所に1851年改訂版のオーケストレーションを取り入れているのである。つまり、二人は実際には存在しない版を作り上げたわけである。それ以後近年まで、1841年版が演奏されるときはブラームス=ヴュルナー版が使われてきた。

21世紀になってそんな状況にようやく風穴が開いた。オリジナルの1841年版がJ.フィンソンの校訂により、ブライトコプフ社から出版されたからである。もちろん本日の演奏は、この版を使用する。